木っ端拾いの材木流し

Cannot see the wood for the trees.

「〜じゃないですか」と「〜やんか」と言葉の非寛容

http://d.hatena.ne.jp/FlowerLounge/20040111#p2
経由:http://d.hatena.ne.jp/bmp/20040111#1073761285
「〜じゃないですか」と「〜やんか」の共通性は以前から感じていて、同じ事を考えている人がいたのは面白かった。それと同時に「〜じゃないですか」の嫌われっぷりに驚いた。
僕は東西で言うと関東の出身で、「〜じゃないですか」の後で「〜やんか」を知った。最初は関西出身の友達が「〜やんか」と言うたびに「そうなの?」と聞き返しそうになっていたけど、そのうち「ああ、これは『〜じゃないですか』と同じニュアンスなんだな」と解って、今では両方に普通に相槌がうてる。*1
しかし上記で引用した方の論調は「〜じゃないですか」に否定的だ。

関西弁のスタンダードな会話に「〜やんか」と言う話し方がある。これは

「昨日なー、梅田に行ってんやんかー」

のように使う。話し手がきのう梅田に行った事を、聞き手が知っているかどうかは関係ない。意味は「昨日、梅田に行ったらね」のように「〜やんか」の後に来る言葉を接続するためにのみ使われる場合が多いように思う。「〜やんか」には「〜じゃないですか」的な同意を求める意味合いはほとんど感じられないのだが、この「〜やんか」が、言葉のみ一人歩きして標準語に定着してしまったのではないだろうか。

「〜やんか」が接続のニュアンスで使われることは認知されていいるのに、「〜じゃないですか」は許されない。なんだか「〜じゃないですか」がかわいそうになる。確かに、明らかに話し手しか知らないような事を「〜じゃないですか」と言われた時には違和感を感じるけど、この人の中ではそういう使い方なんだと理解してあげる訳にはいかないのかな、と思う。
僕が言葉の非寛容の無意味さを感じたのは、PHSが流行した時だった。当時女子高生が率先して『ピッチ』という呼称を使い出して、大人がそれにつられだした頃に「いい大人が『ピッチ』なんて縮め方をして恥ずかしい」という意見が巷に流れた。僕もその単語を聞いたり言ったりするのが気恥ずかしくて『ピーエイチエス』と言っていた。
しかし今となっては『ピッチ』に異議を唱える人なんてほとんどいない(それ以前にPHS自体が減っているのだけど)。要は意味が通れば良いのだ。「昨日ピッチにかけたのにどうして出なかったの?」と問われた時に「『ピッチ』じゃなくて『ピーエイチエス』だろ」と答えるのは、話の流れを切ってしまうだけで得るものはない。相手が聞きたいのはPHSの正式名称ではなくて、僕がPHSに出なかった理由なのだから。
「〜やんか」が「〜じゃないですか」のルーツだという説は、『関東の○○は関西の××のパクリだ』とか『日本の○○は韓国の××のパクリだ』と似たものを感じた。ああいうのは芸能人や掲示板の中だけで使われるネタ的な発想だと思っていたけど、実際にあるんだなぁ。

*1:ついでに言うと、「〜なんだよね」も接続のニュアンスで使われることがある。これもまた関西出身の人には毛嫌いされる。